連邦の移民政策-建国期から1965年移民法まで
連邦の移民政策-建国期から1965年移民法まで
アメリカ人は自国のアイデンティティについて、それなりに明確かつ肯定的な共通概念をもっていた。
英語を共通語とし、共和制・自由競争・陪審制が政治・経済・司法の根本的枠組みとなり、宗教的には政教分離の原則に立つキリスト教プロテスタンティズムが受け入れられることとなった。また同時に平等主義、個人主義、勤勉・倹約の精神、自発的結社などの価値観が広く行き渡るアングロ・アメリカ社会(イギリス文化が基底となる社会)が形成された。
1965年以前には、さまざまな活動、制度、および政策を創案して移民のアメリカ化を促進していた。アメリカ人は18世紀に「アメリカナイゼーション(アメリカ化)」という言葉と概念を作り出し、それと同時に「イミグラント(移民)」という言葉と概念も考案した。彼らは、この国に上陸してくる新たな人々をアメリカ人にする必要を感じていた。「われわれは国民がもっとアメリカ化するよう配慮しなければならない」とジョン・ジェイは1797年に言い、ジェファソンも同趣旨のことを語った。アメリカはある意味では移民の国だったが、それ以上に、移民とその子孫をアメリカ社会に同化させた国だった。
では、何をもって移民が同化するか。当時は、その人がどれだけ受入社会の文化様式を受容し(文化変容)、受入社会の「集団および制度のネットワーク、または社会構造」のなかに入り、受入社会のメンバーと婚姻によって結ばれ、受入社会に限定的な「民族帰属意識」を発展させるかによっていた。
1990年代になると、移民の問題について理解をするにあたって、ヨーロッパの学者の一団が「社会的安全保障」という概念を展開した。国家の安全保障が何にもまして主権を重視するのに対し、社会的安全保障はアイデンティティ、すなわち国民が自分たちの文化、制度、生活様式を維持する観点から把握をしようと試みたのである。
→ 「発展のための受け入れ可能な条件のなかで、言語、文化、人間関係、宗教的アイデンティティとナショナル・アイデンティティおよび慣習の伝統的なパターンを維持できるかどうか」ということ重要視
移民政策は、雇用や経済成長、人口動態、文化、社会、社会福祉、権力分布、外交関係、安全保障など、様々な領域に影響が及ぶ。多様な理念と利益関心が表出される政策領域なので、時期に応じて全く異なった表れ方をする。-基本的に3つの移民に対する見方がある。
移民に対する3つの立場
・同化をともなわない移民
→ 移民の受け入れには寛容だが、同化させる努力はほとんどしない政策
・同化をともなう移民
→ それなりの数の移民を国内に受け入れ、移民の社会と文化への同化も推進する方法
・移民の数を制限する
移民を制限する場合は、特殊技能や教育、あるいは出身国(1924年にアメリカが行ったように)など、制限効果のある入国審査基準を設けるか、ヨーロッパ諸国の「ゲスト・ワーカー」プログラムや、アメリカのメキシコ人季節労働者やH-1B査証[専門職労働者]のように、限定された期間のみ移民を受け入れて、入国者数を制限することになる。
- 移民問題は多様な理念と利益関心が表出される政策領域 → 時期に応じて全く異なった表れ方に
(例:)
冷戦時に自由主義陣営に引き入れたい国からの移民を積極的に受け入れたり、難民受け入れに積極的になることもあった
2001年の9.11テロ事件以降
安全保障の観点から移民の受け入れに消極的になることもある
【特に好況時】:企業経営者
好況時は安価な労働力に対する需要が大きくなるため、人種的・民族的差別感情も弱くなり、潤沢で安価な労働力を提供する移民を、アメリカ、そして自らの企業に繁栄をもたらすものとして高く評価する
【特に不況時】:労働運動に従事する人
労働基準や経済的保障を損なうものとして移民を批判的にとらえているまた、不況が見舞うと移民は低賃金や文化的分裂をもたらすものとして嫌悪される
→ 移民制限立法は、アメリカ社会の自己診断としての意義を持つ
建国期から1965年移民法まで
・植民地時代:イギリス系植民地では、アングロ・サクソンが主要な集団
-スコットランドやウェールズ、アイルランドからの移住者も多かった
アメリカ革命の頃:アメリカへの移住者-年間数千人
トマス・ジェファソン
多くの邦が人口を増大させるために無制約に移民を受け入れようとしていると批判し、それら移民の多くは、絶対君主への忠誠心をいまだに保持しているか、逆に無政府主義の傾向を示していると危惧
合衆国憲法の批准によって新国家の創設された頃:
→ ヨーロッパからの移民に関しては、基本的に自由放任主義的な態度がとられた
1787年 フィラデルフィア会議
ジェームズ・マディソン
ヨーロッパからの移民を積極的に受け入れている州は人口も増大し、農業や芸術も発達していると指摘したう上で、移民の権利を制限しようという辺境な考えは、新しい共和国に似つかわしくないと警告した。
1790年 第一議会にて「帰化法」制定
‥アメリカに2年以上居住している自由な白人に市民権を与えるという法律
1790年代 英仏戦争と国内の党派対立の結果、移民への支持は減少
1795年 帰化法の規定変更
‥帰化のための居住要件を2年よりも長く5年とした
- 外国人・治安維持諸法が制定 (フランスとの紛争を受けて)
‥すべての外国人に連邦政府への登録を義務付けるとともに、
市民権の資格を14年以上居住した者にのみ与えようとするものだった。
→ 外国人法は、合衆国の平和と安全を危険にさらすと判断できる外国人を逮捕し、追放する権限を大統領に与えた。
1798年 敵性外国人法
→ 戦時中には14歳以上の男性の在留外国人を拘束し、強制退去させる権限を大統領に与えた。
- 民主共和党 ジェファソン大統領
外国人登録の義務付けを廃止し、帰化のための居住要件も廃止
→ ヨーロッパの好ましくない統治を避けて幸福を追求しようとしてきた人々が兄弟として受け入れられるべき、新しいカナンの地となるべきだと主張
1820年~南北戦争期 :ほぼ500万人の移民がヨーロッパから流入
→ 連邦政府はヨーロッパからの移民に対して、ほぼ沈黙を保っていた
1820年代: 4% (移民がアメリカの人口増に占める割合)
1850年代: 3分の1(移民がアメリカの人口増に占める割合)
理由:
・アメリカの領土が急激に増大し、移民は巨大なフロンティアに居住できるようになった
-1803年 フランスからフランス領ルイジアナを購入
-1846~1848年の米墨戦争 メキシコから膨大な土地を譲り受ける
・産業経済の発展に伴う労働力の必要性 → ヨーロッパからの移民を積極的に呼び込む
□「ノウ・ナッシング」勢力の増大
1840年代、アイルランドのじゃがいも飢饉の結果、アイルランドの移民が増加する。
・彼らの大半は、貧しく、カトリック
・英語ができたこともあって、北東部の都市で仕事や教育をめぐって争いを起こした。
・マシーン政治を展開 → WASPの反発が強まる
参考: マシーン政治とは
大衆の支持を獲得するために作り上げられた党組織で、移民や貧困者に衣食住などの社会サービスを提供したり、社会的上昇の機会を提供をする
→ 自己の勢力拡大に利用
1850年代には反カトリックを特徴とする秘密結社が組織され、都市部で反カトリック、反移民の立場から選挙活動に携わるようになった。
(活動は、WASPの労働者や職人、小規模企業かによって担われていた)
→メンバーがその組織について「アイ・ノウ・ナッシング」と答えたことから、
移民やカトリックの影響力を制限しようとする人々はノウ・ナッシングと呼ばれるようになった。
*移民排斥よりも大きな問題である奴隷の問題を提起する共和党が現れると、ノウ・ナッシングの凝集力は低下し、1860年までに運動は終焉アメリカの移民政策は、建国以来、州政府が主に担っていたが、1875年に最高裁判所が移民の入国管理は連邦議会の専権事項だとの判断を下した。
1891年 ニューヨークのエリス島に新たな連邦移民局が設置される
→ 移民の4分の3の入国を扱うようになる
*TEA-break:1886年 自由の女神像の設置
エリス島の隣にあるリバティ島には、アメリカ合衆国の独立100周年を記念して、独立運動を支援したフランス人の募金によって自由の女神像が設置されました。アメリカの自由と民主主義の象徴であるとともに、世界各地からやってくる移民にとって新天地の象徴ともなっている。
- 反中国系感情
中国系は1850年代から70年代にかけて、炭鉱労働、鉄道建設、製造業、農業などに従事する安価な契約労働者としてカリフォルニアに連れて来られたが、白人労働者はそのせいで賃金が低下し、労働環境が悪化すると不満を抱いた。
→ 中国系は、新聞などでは神を信じないアヘン中毒者、売春婦、博打打ちとして描かれた
経済状況の悪化に伴い、生産性の低い炭鉱が閉鎖され、大陸横断鉄道が完成し、新しい入植者が太平洋にやってくると、反中国系感情は悪化二大政党も中国系への対応を迫られるようになり、民主、共和両党ともに中国系の排斥を支持
1882年 中国人排斥法
‥ 反中国系の意識は1900年代に、中国系がチャイナタウンに集住するようになるまで収まらなかった
1924年 移民制限法
「母国籍割り当て制度」と呼ばれる方式を採用
-アメリカに入ることのできる移民数に制限を設けるとともに、
1890年の国勢調査における外国人生まれの人口を基準(*注)として、母国籍を同じくする集団に
それぞれその2%を移民枠として按分する。
労働者の余剰問題
- 南部の黒人が北部に移住(第一次大戦中に労働力が不足したため)
- 第一次大戦後に復員兵がアメリカの都市に帰還
・ 機械化、産業化が進展していたため、労働力の労働力の必要性も従来と比べて低下
注:
1890年に設定された背景:
1890年以降、東・南欧から、ユダヤ系やカトリックを中心とする、新移民と呼ばれる人々が、急速、かつ大量に流入してきたことが理由にある。興味深いことには、当時の移民問題の多くが人種問題として議論されていたのである。
アングロ・サクソンを中心とするプロテスタントの人々は、カトリック信者の大量流入に不安を感じ、プロテスタントではないヨーロッパからの移民は、WASPとは異なる人種と見なされた。
ユダヤ教徒の流入もまた脅威だった。彼らはキリスト教徒ではなく、東欧から移民してきたユダヤ系の多くは共産主義(1914年にロシア革命が起こって以降)に共感するところがあった。
→ 共産主義と異教から自由と民主主義を守らねばならないという論理は国民の支持を集めた。
1928年 母国籍主義の完全実施
→ メキシコなど西半球からの移民労働者の流入には制限を設けない(南西部の農場主からの要請)
- 枠が設けられたヨーロッパやアジアからの移民と、西半球からの移民は区別するという分岐したシステム
- 母国籍主義への批判
第二次世界大戦を経て、新移民のアメリカ社会への定着、同化が進むにつれて、母国席主義に対する
批判も強まった。戦争で命を懸けてアメリカのために戦ったカトリック信者やユダヤ教徒、アジア系を拒み続ける理由はないと考えられた。
1946年 戦争花嫁法
→ アメリカ人の軍人の妻や子どもで外国籍の者については、
割り当ての枠外でアメリカ国籍を認める措置
- 冷戦の開始と戦略的考慮 → 制限的な移民法を改革するきっかけに
・自由主義の守護者を任じて、その勢力を拡大しようとしているアメリカが、味方にしたいと考える
地域からの移民を拒むのは問題だと考えられるようになった
・中国との協力関係を深めようとする観点からも、中国人を排除する法律が撤廃され、他のアジア系の移民枠が拡大されるきっかけに
- 1965年 移民法
今日のアメリカの移民法の大枠を規定しているのは、1965年の移民法である。そして、その移民法が設定された際の主眼は、1924年の移民法の原則を覆すことにあった。
初のカトリックの大統領 ジョン・F・ケネディが母国籍主義の廃止に向かわせる
*1950年代末移行の黒人の公民権運動の帰結として、人種、エスニシティ観が激変したことが
イニシアティブの背景( 移民法改正前に暗殺される )
1965年 移民法改正 -ジョンソン大統領
移民査証の発行において、人種、性別、国籍、出生地、居住地に基づく差別的措置を禁じ、移民政策に関して、高技能者と、すでにアメリカに移住している人と近親関係にある人を優先することになった
- 離散家族の再結合という原則 / 出生地主義原則
- 1年間の受け入れ移民数の上限を、東半球17万/西半球12万と定めた。
参考:演説で、「我々は、我が国への移民志願者に対して、いまや『あなた方はどこに生まれたのですか』とかではなく、『あなた方はアメリカにどんな貢献をできるのですか』と問わなければならない」と述べた
- 参考文献
・西山隆行『移民大国アメリカ』ちくま新書(2016年)
・ハンチトン『分断されるアメリカ』集英社文庫(2017年)
・明石紀雄・飯野正子『エスニック・アメリカ[第3版] 多文化社会における』有斐閣選書(2011年)